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雨の指の

文章の練習。チェコを中心に、映画、美術、音楽のこと。

【映画覚書】大学の講座と、アンドレイ・タルコフスキー『鏡』

大学で「シュルレアリスムと中・東欧映画」という留学生向けの講座を取っている。毎週一本映画を観て英語でディスカッションするというもので、ブニュエルシュヴァンクマイエルなど定番ともいえる監督の作品から、運動としてのシュルレアリスムとは関係がなくてもシュルレアリスムのアイディアを通して検討できそうな映画まで幅広く扱う。

英語でコミュニケートするのに慣れてない上に多種多様な訛りが飛び交うので、ときどき議論を追えなくなったり、質問を聞き違えて頓珍漢な発言をかまてしまったりするのだけれど、外国語の闊達なやり取りを追いかけるだけでも得るものが多く、楽しくやっている。講師のリチャードが毎週送ってくる参考文献や連絡事項のメールがシュルレアリスムっていうか中二病なのもかなり好感度高い。書き出しがDear Dead-Eyed Dummies, って、なにごとなの。*1あと、この前の飲み会で一緒になった学生2人がずっと麻薬の話をしていたときは、さすがにどう話に参加すればいいのかまったくわからなかった。そりゃあこっちでは大麻は合法だけど、LSDはまずくない?

 

今週のネタはタルコフスキーの『鏡』(原題 "ЗЕРКАЛО", 1975年)だった。タルコフスキー自身をモデルとしたある男「アリョーシャ」の個人史とロシア史が共鳴するおそろしく内容の濃い映画で、しかも時系列とは関係なく映像が展開してゆくので、正直もう2回くらい観ないと消化できないような気がするが、とりあえず書きとめておこう。

幼いころに暮らしていた山小屋と森。1935年、隣家が火災に見舞われた、その翌日にいなくなった父親。けっして笑うことのない、情緒の不安定な母親。みずからの家族史の鏡像を結ぶかのように、主人公は妻と離婚し、息子に拒絶される。妻を苦しませたことへの悔恨は、母の人生を壊してしまったことへの悔恨へと溶け合い、病の床に臥しながら、彼は過去と現在を絶え間なく往還する。

母=妻を演じるマルガリータ・テレホワの、神経症的な表情のゆらぎ、不穏な緊張感をたたえた美しい眼差しが印象に残る。ディスカッションの中で、この母親はコミュニケーション不可能な、そうであるがゆえに崇高な存在として描かれている、という指摘をした学生がいた。鏡を挟んで循環する眼差し、永遠に回帰する悲しみのただなかで、それでもアリョーシャが最後に救われるのは、その崇高さを通して母親を受け入れたからなんだろうか。

 

来週がわたしがファシリテーター役の当番で、ヴァレリアン・ボロヴズィックの『ブランシェ』を取り扱う。ひとつづきのシークエンスを選んで、ディスカッションのための問題を立てなくてはいけない。恥ずかしながらわたしは名前しか知らなかった監督だけれど、シュレアリスムと映画の関係を包括的に取り扱った英文の良著Surrealism and Cinemaで取り上げられている。この本持って来ておいてよかったなあ。週末はこれと語学の宿題に費やす。

 

Surrealism And Cinema

Surrealism And Cinema

 

 

*1:たぶんシュヴァンクマイエルの時の「操作」概念がらみのジョーク。