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雨の指の

文章の練習。チェコを中心に、映画、美術、音楽のこと。

わかりにくいリアリティはいかにして受け止められるのか―森達也『FAKE』

気付けば実に5カ月ぶりのブログ更新だが、またドキュメンタリー映画の話題だ。劇映画にくらべ、ドキュメンタリーにはそこで観たものについて語らなければという気持ちを強く触発される。

大阪・十三の第七藝術劇場で、森達也監督『FAKE』を観る。森監督の代表作ともいえる『A』『A2』は恥ずかしながら未見だが、著作はいくつか読んだことがあった。特に日本の死刑制度に関する、積極的に語られないことによるゆるやかな隠ぺい、とでもいうべき現状にフォーカスした『死刑』が印象に残っている。

映画『FAKE』公式サイト|監督:森達也/出演:佐村河内守

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さて、このドキュメンタリーはいわゆる「ゴーストライター問題」で2014年に物議をかもした作曲家・佐村河内守の事件後の私生活を追った作品だ。世間との接触を絶ち、照明を落としたマンションの一室に妻と二人で暮らす佐村河内。森との会話は全て妻の手話通訳を介して行う。佐村河内は、自分の作品が秘密裏の「共作」であったことは事実だとしつつ、自らの障害や音楽の能力まで虚偽だとする物語がメディアによって醸成されていったことに対し、憤りと失意をあらわにする。

 

マスメディアによって公共の空間へと引きずり出された人物の物語は、この映画によってマンションの居間というごく私的な空間へと戻される。そこで繰り広げられる、佐村河内と妻と森の三者(と猫)の小さな世界。時折やってくるメディア関係者たち。会話や動きの端々から、佐村河内の感じているらしい現実のかたちが少しずつ垣間見えてくる。それは他者には非常にわかりにくく、ゆえにうたがわしいものだ。全く聞こえないのとも異なる感音性難聴。新垣に「共作」を持ちかけ、しかもそれを秘密にしていたこと。New Republic誌の記者*1に「アイディアを出していたというだけではあなたが作曲に関わっていたとは言い難い。あなたが実際にメロディをつくって見せて、本当に楽曲の共作者だと言えることを証明すればいい」と言われて返す、「シンセサイザーを捨ててしまったから」という言葉。

そして終盤、森は佐村河内にある提案をする。

毎日、メディアはさまざまな無数の人間たち――たとえば警官に殺される黒人たちや、アッラーフ・アクバルと叫んで列車内で斧を振り回した少年ーーについての物語を編み上げ、発信する。その一方で、私的で繊細なリアリティをつたえあう場や、そのための方法は、実はおそろしく限られているのではないか。そして他者に関するあまりにも多くの、インスタントに消費できる物語に身をさらせば、その分だけ他者のわかりにくいリアリティを受け止める感受性も削られてしまうのかもしれない。他者だけではない、自分自身のリアリティだって、いとも簡単に見失われてしまうのではないか。

最後のシークエンスの佐村河内と妻は、世間に向けて真実を明らかにするというよりは、むしろ自分たち自身のリアリティを取り戻す作業をしているようにも思われた。

*1:この時の取材をもとに書かれたと思しき記事をオンラインで読むことが出来る。以下を参照:

newrepublic.com