朝井リョウ『何者』に翻弄される話
朝井リョウの名前を意識したきっかけは、大学でコピー機の順番待ちの間になんとなく手に取った、たしか生協の、フリーペーパーに掲載されていたインタビューだ。この人一歳年下なんだな、と思い、その同世代の作家が『何者』というタイトルで就活について書いているというのがまた興味を引いた。
わたしは就活をまったくしなかった。人文系で院進なんて言い出す人間には少なからずそういうところがあると思うけれど、まあ、企業を憎んでいたし、就活ビジネスも憎んでいた。就職なんて、ただ必要な仕事をして対価を受け取るというシンプルな契約にすぎないはずだ。それを面接だの試験だの「自己分析」だのでひとの内面をジャッジし、改造し、個人は集団の利益のために全面的に奉仕すべき、というイデオロギーのもとで若者を徹底的に飼いならしてゆく。就活とはそんな全体主義的なシステムなのだ――と思っていた。大学の演習授業で発表の当番だった同級生が「前日に突然二次面接の予定を入れられた」と欠席したおかげで授業が機能しなくなったことが二度ほどあり、企業は大学のことも学生のこともひどく莫迦にしているのだ、とやり場のない怒りを覚えたこともあった。要はちょっとしたルサンチマンがあるのだ。
そんな当時のわたしの立ち位置は、朝井の小説『何者』に登場する就活生の中では、隆良(たかよし)にもっとも近い。分厚い思想書を読み、現代美術館に出入りし、アート系Webサイトにエッセイを寄稿することも決まっている、そんな青年。
俺は就活しないよ。去年、一年間休学してて、自分は就活とかそういうのに向いてないってわかったから。いま? いまは、いろんな人と出会って、いろんな人と話して、たくさん本を読んでモノを見て。会社に入らなくても生きていけるようになるための準備期間、ってとこかな。原発があんなことになって、この国にずっと住み続けられるのかもわからないし、どんな大きな会社だっていつどうなるのかわからない。そんな中で、不安定なこの国の、いつ崩れ落ちるかわからないような仕組みの上にある企業に身を委ねるって、どういう感覚なんだろうって俺は思っちゃうんだよね。(p.73)
うわあ、恥ずかしい。
実際にリクルートスーツ姿の同級生とつるんでいた当時のわたしは、彼よりもまだ政治がかっていたような気はするけれど、まあ、だいたいこんな気持ちだった(し、実のところ、今でもわりあい似たような気持ちだ)。このスカした男の子の口を借りて示されているのは、就活をしない学生の心持ちの見事な典型なのであり、じつに居たたまれない。マジでつらい。
このくだりが隆良の台詞としてではなく、地の文、つまり本作の語り手である拓人(たくと)の回想のなかの声として書かれているあたりがさらにつらさを煽ってくる。拓人が隆良の心情からどれほどの距離を取っていることか。
個人の話を、大きな話にすり替える。そうされると、誰も何も言えなくなってしまう。就職の話をしていたと思ったら、いつのまにかこの国の仕組みの話になっていた。そんな大きなテーマに、真っ向から意見を言える人はいない。こんなやり方で自分の優位性を確かめているとしたら、隆良の足元は相当ぐらぐらなんだろうな、と俺は思った。(p. 74)
そうだよねえ。わたしは拓人に賛同する。隆良なんて、カシコぶってマウンティングしたいだけじゃん、ねえ。
語り手たる拓人の立ち位置は「観察者」である。演劇サークルに所属していた気弱な青年。拓人は友人たちの言動やツイッター上のやりとりなどをこまめにチェックし、子細に分析し、いら立ったり共感したりする。
彼を特にいら立たせるのは、大学を辞めて自分の劇団を運営しているかつての親友、ギンジの存在だ。ギンジの劇団が2ちゃんでたたかれているのを拓斗は定期的に眺め、暗い安堵を覚える。このあたり、もしかしたら拓人にはネットウオッチャーの立ち位置が重ね合わされているかもしれない。
彼はギンジと先程の隆良を、こんなふうに批判的に重ね合わせている。
たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意思のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。(中略)
俺は、自分で、自分のやりたいことをやる。就職はしない。舞台の上で生きる。
ギンジの言葉が、頭の中で蘇る。就活をしないと決めた人特有の、自分だけが自分の道を選んで生きていますという自負。いま目の前にいる隆良の全身にも、そのようなものが漂っている。(pp. 88‐89)
拓人が想いを寄せていた友人の瑞月(みずき)は海外留学帰りだが、問題を抱えた家族のために自分の夢をあきらめて、堅いところに「ちゃんと就職」することを選ぶ。そんな事情もあって、拓人は隆良とギンジを「想像力が足りない人間だ」とことさらに非難するのだ。
先程隆良にさんざん恥ずかしい思いをさせられたわたしは、ひとまず拓人に同意することで心の安定を図ろうとしてみる。
拓人の友人たちはみんな、インターネットの中に見いだされる就活生の典型としての要素をどこかに持っている。自意識の肥大した「サブカルクソ野郎」の隆良。軽音楽サークルに熱を入れ過ぎて留年した「ウェイ系」の光太郎。学祭委員やNGO、海外留学と精力的に活動する、真面目で「意識高い系」の理香。しかしその表面的なステレオタイプは巧妙に裏切られていく。アホの子に見える光太郎は、実は冷静に周囲の空気を判断して如才のないコミュニケーションを図っている。就活なんて下らないと言いながら隆良はこっそりと広告会社の採用試験を受けているし、華やかな言動を繰り広げる理香は本当は友達が少ない。拓人は友人たちのそんな揺らぎをひとつひとつ拾い上げてゆく。読者たるわたしが「嫌な奴」と突き放してしまえない程度のぎりぎりの悪意と、時には誠実そうに見えるまなざしで。
しかし、そんな彼自身はどういう人間なのか?
拓人が「俺の独自の視点による人間観察の成果をいつも笑って聞いてくれる」と言って慕うサワ先輩は、「隆良とギンジは全然違うよ」と言って彼に釘を刺す。
「たった一四〇字が重なっただけで、ギンジとあいつを束ねて片付けようとするなよ」
(中略)
「ほんの少しの言葉の向こうにいる人間そのものを、想像してあげろよ、もっと」(p. 204)
隆良とギンジに対する拓人の批判的「観察」はこうして、サワ先輩を通じて彼自身に跳ね返ってゆく。このあたりからわたしは、もはや拓人を信頼できない。
きみは「何者」?
この疑念に対する答えは大団円で与えられる。おそらくネタばれになるので詳述は避けるが、ここで明らかになるのは結局「自分は『何者』だ?」という問いに絡めとられて動けない拓人の姿だ。
それはある時点でのわたし自身の似姿でもある。
そして、おそらくはさまざまな若い人々の。
幼いころから繰り返し吹き込まれてきた「世に恥じぬ何者かであれ」というメッセージを真正面から受け止め、人々は就活に臨んだり、臨まなかったりする。「自分は『何者』?」――もう永遠にペンディングにしておこうと決めたはずの問い。自意識に煩悶するあの厭な感じをまざまざと思い出させる、胃の痛くなるような小説だ。