雨の指の

文章の練習。チェコを中心に、映画、美術、音楽のこと。

ミハルについて

 ミハルはコラージュを作っている。多くのイメージがふり積もり、押し固められ、鉱石になったようなコラージュ。本人の見た目はハンガリー映画『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の主人公ヴァルシュカに似ている。ひとつの時代が崩壊するときに、彼がプラハの旧市街広場でクジラと出会うようなことがあっても、たしかに不思議には思わない。

 その日のプルゼニは重苦しい曇り空で、共和国広場ではモトルカーシ(バイク乗り)の大柄な男たちが集まってなにか愛国主義的なことを叫んでいる。そこから少し離れたバスターミナルのそば、古ぼけたアパートが並ぶ寂しい地区の一角にヤブロニ(林檎)というちいさなイヴェントスペースがあって、そこで彼のコラージュが展示されていた。とても落ち着いた美しい空間で、あざやかな青や黄色の壁に作品がよく映えている。カウンターに立っている優しいまなざしの女性に「ミハルは来ていますか?」と尋ねたら、もう少ししたら戻ってくるよ、飲み物はいかが? という。カプチーノを頼んで窓際の椅子に座り、そばの本棚から小さな紫色の本を手にとる。韓国の詩人の本をチェコ語訳したものだった。カプチーノはなかなか来ない。先ほどの女性が来て、機械がうまく動かないのでもうすこし待ってほしいと言う。

 ミハルが数人の友人と一緒にやって来る。ときどきメールをやり取りしていたが顔を合わせるのは初めてだ。かれは日本の茶器や掛け軸を買う時に、日本語の箱書きや裏書きの意味をわたしに尋ねてくることがあった。ポートフォリオと大量の作品の現物を机の上に広げて見せてくれる。「ひとつえらんで、プレゼントだよ」と言う。わたしが選んだのは富士山と老女のイメージが含まれた、青と灰色の調和が目を引く一枚で、「これ、自分でもすごく気に入っているんだ」と言いながらミハルは裏側にサインを入れ、加えてなぜか英語でDear Haruka, How are you?と書き添えた。

 17時からのヴェルニサージュで詩の朗読と即興演奏のパフォーマンスをしたのは、ヤヌスと名乗る老人と二人の若者だった。みんな絵本の中からやってきたような色鮮やかな服を着て、若者の一人はガスマスクを、ヤヌス氏は金色の紙を貼った筒状の帽子をかぶっている。客のひとりから「ミステル・ヤン・フス!」という声が飛び、老人は「俺はミステル・ヤヌスだよ!」と返す。そこで初めて、金の帽子はフスが火刑の時に被らされた帽子のパロディだと思いいたる。悪魔と畜生の痩せた影が描かれた、呪われた白い紙帽子。

 ヤヌス氏一座の公演は果てしなく続き、ミハルはたまに飛び込んでいって、エレキギターを鳴らしながら詩を読み上げる。パフォーマンスとしてはちょっとぎこちなくて、ギターの演奏はとても下手だ。わたしたちとは反対側のテーブルに集まってにぎやかに話していた若者たちの中から、坊主頭の男の子がひとり飛び出して、「5分だけちょうだい!」と言って非の打ち所のないマウスパーカッションを披露する。「彼は本当に人間?」と彼のそばにいた女の子に聞くと「いや、機械だろうね!」と真顔で返事をされる。「ところで、あなたがどこからきたのか聞いてもいい?」彼女の話す英語は流暢なアメリカン・アクセントで、スラヴ訛りがまったくない。「日本から来たの。留学生で、チェコ語を勉強してる。あなたは?」「わたしはチェコ人」「ほんとに? 発音完璧じゃん、最初チェコ人だと思わなかった」「ありがと! 思いっきりアメリカ英語でちょっと恥ずかしいんだけどね」彼女はチェコの外から来た人間をヤブロニで見たのは初めてだと言い、こういう場所も楽しんでもらえたらいいんだけれど、と少しはにかんでいた。

 ミハルとかれの友人フランチシェクと一緒に3人でヤブロニを出て、酒を飲むところを探して旧市街へ向かう。「ぼくは何でも拾うんだ」とミハルはつたない英語で話す(わたしがチェコ語を話すときに緊張していて、英語を話すときのほうがリラックスしているように見えるというので、どうやら気を遣わせてしまったらしい)。「このボールペンも拾ったものだし、家だって拾ったんだよ。森の中を散歩していたらすごく良い感じの小屋があって、ああここに住みたいな、って思ったから、持ち主を探し出して交渉したんだ。年間6000コルナで貸してもらってる」「6000? クソ安いな!」とフランチシェクが笑う。

 日曜日の夜なので開いている店は少ない。広場のそばの大きなクラブに入り、ミハルはピルスナーを、わたしはコーラを注文する。ミハルはとてもうれしそうに「ハルカ、ぼくにはきみがすごく美しい着物を着ているところが見えるよ。可笑しいかもしれないけれど、ぼくはときどきそういうものが見えるんだ」と言う。わたしが東洋のイメージをまとってしまうのはたんにわたしの見かけとチェコ語のまずさのせいだし、それはたぶんとてもシンプルなオリエンタリズムなのだが、それでもミハルにとっては魔術的なものに違いなかったのだろうと思う。

 それからミハルはだぶだぶのズボンのポケットからちいさな石を取り出す。黒く細長く、ちょうど手の中におさまる大きさで、真ん中のあたりにごつごつとした窪みがあった。それは見ようによっては、おそろしく小さく精緻に彫られた石像のようでもあった。全体を覆う細かな黒水晶が、星がまたたくようにきらきらと光っている。

「これはものすごく古い木だよ。プラハの森の中で、こんなに大きい木が地面に倒れていたんだ」

 ミハルはその石化した木のかけらを、静かにわたしの手のひらに握らせた。

 プラハでの生活を終えるまで、その石はずっとわたしの上着の右のポケットに入っていた。心細いことがあるたびに石を取り出し、街明かりを映してきらきらと光るのを眺めながら、石化した巨木の横たわる古い森を思った。

 

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