雨の指の

文章の練習。チェコを中心に、映画、美術、音楽のこと。

自我の未確立とその影響

ほとんど半年ぶりのブログ更新が長々とした自分語りというのもどうなのかとは思うけれど、自分のことについて、これまであまり考えたことのなかった長期的な問題を自覚し始めているので、ちょっと書きとめておこうと思う。

わたしは元来、非常に他者依存的な性格である。他人からの評価をいつも気にし、下に見られること、対立することを恐れている。そして自分に自信がない上に見栄を張りがちなところがあって、自分とかかわりのある人たちに、自分がほんとうは何もできないつまらない人間であることが露呈してしまうのではないのかと、毎日不安に押しつぶされそうになっている。

 そう。わたしは自分が何もできないつまらない人間であると思っていて、そのことにほとんど耐えがたい苦痛を感じている。子どもの頃から絵や音楽、映画やアニメーションなどの文化的な活動が大好きだった。しかし自分でパフォーマンスをおこなったり、作品を完成させる経験には乏しかった。学部生の頃からアートNPOやバンド活動に出入りしていたけれど、いつも何年も経たないうちにやめてしまうのだった。わたしの人生はもはや、つくりかけで放り出したものごとでいっぱいになっていて、いまのわたしは結局、何かを作り上げてひとに見せられるほどの技術も根気も持たない、無能な人間のままである。

 どのような活動であっても、続けてゆくと何かしらの嫌な思いや困難に直面することがある。わたしの場合、それは一緒に活動を行っている人々に関する不信であることが多かった。他人の眼差しを過剰に意識してしまう性格とあいまって、わたしは先輩や同僚に対してとても愛想よく従順に接する。しかし何かのきかっけで、彼らに対する不信感や反発を感じた時、そこで突然、冷めてしまうのだ。相手を嫌いになるわけではない、怒るわけでもない、とにかく冷めてしまう。相手に自分の違和感を伝えることはない。ただずるずると連絡を取らなくなったり、体調不良を理由に脱退したり、あるいは単純に足が遠のいたり、そういったことになる。

 本当に自分のやっている活動に熱意を持って取り組んでいるのなら、このような対人関係や感情の変化にも折り合いをつけて続けていこうとしたはずである。しかしわたしはそうしなかった。なぜか。おそらくわたしの関心の向かう先が、活動そのものではなく、ただひたすらに「人からの眼差し」に向いていたということなのではないかと思う。もっと正確に言えば、活動そのものへの熱意が知らず知らずのうちに「まわりの人と仲良くやっていきたい」という意識に置き換わっていってしまっていたのだ。こうした状況の中で人に対して何か不信を感じた時、「この人はわたしの思っていたような人ではなかった」あるいは「もしかしたらこの人は私のことを良く思っていないのかもしれない」と考える瞬間がおとずれたとき、すべてがどうでもよくなってしまい、活動それ自体が重荷になってゆくのだった。

 わたしは、活動を続けていくなかでこのように本末が転倒してしまうことに、長い間まったく気が付いていなかった。だから、あれほど楽しんでいたはずの活動がどうして最終的に苦痛になってしまうのか、自分でも理解が出来なかったのだ。ようやく理解したのは最近のこと、留学生活の中で困難に直面してからのことだ。

チェコで暮らして9か月あまりが過ぎたが、チェコ語が思ったように上達せず、会話によるコミュニケーションがまだ満足にとれない。それなりに扱える英語もまた、話す相手によってはほとんど聞き取れないことがある。おそらくはまだ学習量そのものが足りていないということなのだが、もはや学習自体が苦痛になってしまっていて、量もこなせない、という悪循環に絡め取られている。そこで、あれほど望んでいた留学がどうしてこんなに苦痛になってしまったのかと考え始め、ふと気が付いたのだった。自分の頭を占めているのが「チェコに1年もいて言葉を習得できていないなんて、研究者仲間や先生方に知られたらどんなにか冷ややかな目を向けられるだろう」そして「わたしのたどたどしい現地語に対応させられる人たちはきっとうんざりしているのではないか」「こちらの言葉の不完全さをみな腹の底では莫迦にしているにちがいない」という、他者からの眼差しに関する不安であるということに。その不安こそがわたしのモチベーションを脅かしているということに。

この不安に根拠があるかないかはまた別の問題として、重要なのは、ここでもまた目的の転倒が起こっているということだ。わたしは自分の研究のため、もっといえば自分自身の視野を広げるためにチェコ語を学び始めたはずなのに、いつのまにかそれが他者からの評価、もっといえば他者との協調の問題に置き換えられてしまっている。

そして先に書いたように、この転倒は、わたしは気が付かなかっただけで、ずっと以前から繰り返し起きていることなのだった。ここでわたしが抱えているのは、肥大化した承認欲求といったものとは少し違うように思う。むしろ「わたしとあなたが互いに認め合う」という理想的な関係性を全方向に求め、その維持に異様にこだわるような心性だ。なので、相手から承認されないという時だけではなく、自分が相手を承認できなくなった時にもまた、モチベーションが脅かされることになる。

いずれにせよ、他人との関係性が他のすべてを押し流す人生のテーマになってしまい、結果として私自身のやりたいことを実現させる、あるいは自分の居場所を定めるということができないままになっていたのだ。

おそらく自我の確立が出来ていないのだろうと思う。はてなハイクに「他人と自分の区別がつかない」と書き続けていた頃からその自覚はあったのだが、自分の人生にここまではっきりとした影響をもたらしていることには気が付いていなかった。ただ、今こうして自我の未確立とその影響に気が付いたということは、何かの区切りになるような気がしている。