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雨の指の

文章の練習。チェコを中心に、映画、美術、音楽のこと。

【映画覚書】『食人族』

10年とちょっと前、中学生のころに好んで見ていたWebサイトにマジソンズ博覧会がある。マジソンズに日参する女子中学生なんてその時点でいろいろお察しくださいといったところなんだけれど、それはそれとして、特に岸田裁月氏最低映画館は愛読、いやほとんど耽読していたと言っていいと思う。シネフィルの岸田氏が淡々とした筆致でカルト映画を紹介していくコーナーで、モンティ・パイソンもペン・アンド・テラーも『フリークス』も『ピンク・フラミンゴ』もエド・ウッドも全部このサイトで知った。当時はここに挙げられている映画を観ることはほとんど叶わなかったので、ただ映画の紹介を読んでひそかにわくわくするだけだったのが、今ではある程度古いものならyoutubeにフルで上がっていたりする。インターネットもずいぶん変わった。

その最低映画館を久々に読み返していて、ルッジェロ・デオダート監督『食人族』(1980)のレビューに興味を引かれた。わたしはたいしたシネフィルでもないけれど、昔から「虚実が入り混じる映画」が好きでたまらない。その延長でドキュメンタリーが好きだし、モキュメンタリーも好きだ。

観ている者の感覚を麻痺させて、虚実の別を混乱させる演出手腕は大したものだ。この映画の中盤で「これはヤラセだ」として、銃殺刑のフィルムが上映されるのだが、これは実は本物なのである。現実と虚構の判断を麻痺させられてしまうのだ。

――最低映画館〜食人族(CANNIBAL HOLOCAUST)

その演出は確信犯だ。ドキュメンタリーの裏返し。面白いにちがいない。

『食人族』は『ブレア・ウイッチ・プロジェクト』のような「ドキュメンタリーという設定のフィクション映画」である。

Cannibal Holocaustという極端にひどい原題があらわす通り、まあ、極端にひどい。血と臓物がでろでろだし、ミソジニックで差別的だし、亀や猿の(フェイクなしの)解体シーンなんかも盛りだくさん。

物語の大筋は次の通り。4人のアメリカ人男女からなるドキュメンタリー映画制作チームが、食人部族を取材するために2台の8mmカメラと銃をたずさえてアマゾン川沿いの密林に渡ったが、それきり帰ることはなかった。文化人類学者が現地入りし、(食人部族の男が敵対する部族の女をレイプして惨殺するところなどを目撃しつつ)部族と接触、遺された8㎜フィルムを入手する。しかしそこに映っていたのは、部族の少女をレイプするわ、村を燃やすわ、極悪非道の限りをつくした末に、逆襲されて食べられてしまう制作チームの姿であった。フィルムを観た人類学者はつぶやく、"I wonder who the real cannibals are." (本当の人食いはいったい誰なんだろうな)。

フィルムはすべて焼却される予定であったが、映写技師によってひそかに持ち出され、この映画Cannibal Holocaustが日の目を見ることとなった…。

ノンフィクションとはフィクションなのか? 野蛮人とは文明人なのか? こうしていくつかの序列をひっくり返しながら、この映画はドキュメンタリーという映画の手法をかなり過激に皮肉っている。劇中のドキュメンタリー制作チーム4人組は、インパクトのある映像をものにするためならば村に火をつけて偽のナレーションを入れることもいとわない。どんなに残虐な状況になっても、被写体が撮影を拒否している時でさえ、キャメラを回し 続ける。しかし、ヤラセも、被写体の拒絶を無視した撮影の強行も、程度の差こそあれ多くの「名作」と呼ばれるドキュメンタリーにおいて行われてきたことだ。ドキュメンタリーの底には悪意がある、と書いていたのはたしか佐藤真監督だったと思う。この悪意を"cannibal"の野蛮性として極端に戯画化してみせたのが『食人族』だといえる、かもしれない。あるいはおそらく、ドキュメンタリーの底にある悪意もエロ・グロ映画の底にある悪意も同根なのだろう――「見てみたい」という際限のない欲望。